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お知らせ
活動報告
立教新座中学校・高等学校にて定期総会が開催されました
立教新座中学校・高等学校において感謝礼拝、定期総会、懇親会を行いました。…
2012.06.16同窓会概要
会員
旧制立教中学校、立教中学校(現立教池袋中学校)、立教高等学校(現立教新座高等学校)、立教池袋中学校、立教池袋高等学校、立教新座中学校、立教新座高等学校を卒業した同窓生で構成されています。
(但し中学校の卒業生が、立教池袋高等学校、立教新座高等学校に進学した場合は、進学した高等学校の卒業後に会員となります)
役員
立教中学校・高等学校同窓会の役員は、
会長、副会長(3人)、監査(2人)と、常任理事(4人)、理事(8人)を含む、下記4つの委員会によって構成されております。
立教中学校・高等学校同窓会役員 2022年〜(任期2年)
会 長 | 麻田恭一(1972) | ||
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副会長 | 山口明義(1976) 高橋雅美(1977) 細淵雅邦(1979) |
||
監 事 | 肥田野明光(1973) 吉田潔史(1977) |
||
総務委員会 | 委員長 副委員長 |
◎ 〇 |
今井敏弘(1979) 熊木秀章(1989) 黒澤昭浩(1990) 森 弘樹(1992) 村木秀児(2006) |
広報委員会 | 委員長 副委員長 |
◎ 〇 |
佐々木幸太(1988) 木原一雄(1990) 東海林純一(1989) 澤田剛治(1995) 前原一仁(2001) |
会計委員会 | 委員長 副委員長 |
◎ 〇 |
飯塚 努(1987) 永井寛樹(1990) 片岡和秀(1990) 佐々木一茂(1994) |
企画委員会 | 委員長 副委員長 |
◎ 〇 |
小松秀之(1985) 中井修(1983) 鈴木信隆(1991) 前田瑞樹(1992) 高山幸治(1996) |
理事(常任含)12名/監事2名/委員12名
合計26名
◎常任理事 〇理事
立教中高の歴史
創立者
立教の創立者、チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教は、1829年7月18日アメリカ、ヴァージニア州リッチモンドで生まれました。幼いときに父親が病死したため、従兄の雑貨店の店員をしながら学費を稼ぎ、ウィリアム&メアリー大学を卒業。そして、海外への伝導に熱心だったヴァージニア聖公会神学校へ進学しました。アメリカ聖公会初代海外伝道主教W.J.ブーンがこの学校を訪問したのをきっかけに中国への伝道を決意、卒業後、同級生ジョン・リギンズと共にアメリカ聖公会伝道協会より任命され、中国派遣の伝道師となりました。1855年11月30日、26歳のとき、ニューヨークを出発し、南半球をまわり、オーストラリアのシドニーを経由する半年以上の長旅で翌年1856年6月28日ブーン主教の待つ清(上海)へ到着しました。
上海で中国語の学習をはじめた2人は、わずか11ヶ月後には中国語での伝導をしていました。当時の清は、阿片戦争に負けたばかりで、暴徒による襲撃や暴力に苦労したようです。
特にリギンズは、マラリアや暴徒による危害での衰弱がひどかったようです。
清で3年間を過ごしたのち、1858年、日米修好通商条約が調印されたのを機に、1859年5月まず、リギンズが静養を兼ねて長崎に来日し、同年6月下旬にウィリアムズが来日しました。二人は、日本に来た初のプロテスタント宣教師です。
ウィリアムズ主教来日
長崎に着いた二人は、崇福寺という寺で過ごしました。しかし、リギンズは体調の回復が思わしくなく帰国し、ウィリアムズは1人で長崎に残りました。ウィリアムズの語学習得はここでもすばらしく、わずか1年3ヶ月で日本語を自由に操ったそうです。当時、幕府はまだ、キリシタン弾圧を行なっていました。その後、東山居住地の宣教師館に移り、外人居留者のための教会で牧師をするかたわら、祈禱書や聖書の翻訳を続け、布教ができる日を待ち望んでいました。このころ、ウィリアムズは高杉晋作に会ったり、前島密や大隈重信に英語を教えています。
1864年ブーン主教が亡くなったため、後任に選ばれたウィリアムズは1866年アメリカ聖公会から呼び戻され、中国伝導主教(日本も担当)に任命されました。この帰国時に、大統領A.ジョンソンや国務長官W.H.シワードに直接面会し、日本の禁教令撤廃に圧力をかけるよう願い出ています。
1868年ウィリアムズ主教は再び清に渡り、武昌(のちの漢口)に拠点を置き、伝道の旅を続けていましたが、日本での大政奉還を聞きつけ、1869(明治2)年、再来日し、今度は大阪を拠点としました。
大阪での活動
1870(明治3)年、与力町に小さな礼拝堂を作り、英語塾を開き、後続の宣教師たちも大阪へやってきてウィリアムズ主教の活動は徐々に充実してきました。
1871(明治4)年には、川口居留地内に移転し、翌年には、午後2時間のみの男子学校を開きましたが、わずか4ヶ月で大阪当局に閉校させられました。ウィリアムズ主教は、大阪に続いて東京での開校を計画し、アメリカ聖公会に提起しました。これを承認したアメリカ聖公会は、日本へC.H.ニューマン、C.T.ブランシェー、W.B.クーパーらの宣教師達を東京へ派遣してきました。男子学校は翌1873(明治6)年2月4日、待望の本格的な学校、聖テモテ学校(のちの大阪英和学舎)として28名の生徒を集めて再び開校しました。
徐々に宣教活動が黙認され始め、1873(明治6)年2月24日、明治政府によるキリシタン禁止の高札が撤去されました。
この年11月、大阪の学校を後任にまかせ、ウィリアムズ主教は44歳になるこの年、次の目的地、東京へ主教座を移しました。
立教の創立
東京での住居探しは、思いのほか苦労し、短期間に何度か移転した後、詩人ヘンリー・ロングフェローが子息のためにたてた家を借用しました。ここが築地の外国人居留地だったのか、内外人雑居地だったのかは、確定されていません。
ウィリアムズ主教は東京に来てわずか3ヶ月後、ここでブランシェーと二人で(クーパーも後から参加)私塾を開きました。
1874(明治7)年2月3日、これが今日の立教学院の創立となります。(校長はブランシェー)
名も無い私塾は5人とも8人とも言われている生徒数から始まり、単にボーイズスクールと呼ばれていましたが、4月には生徒は30人ほどに増えていました。授業は、聖書と英語の2つでした。
立教創立の年、中国と日本の両方の主教をつとめる事に限界を感じていたウィリアムズ主教は、かねてからアメリカ聖公会に日本専任の主教を置く事を求めていましたが、それが認められ、「江戸監督(主教)」となりました。当時は主教とは言わず、監督と呼んでいました。
その年の暮れから、新聞広告を出しており、築地入船町に五丁目一番地となっていることから、1年経たずに引っ越していることがうかがえます。
ウィリアムズ主教は寄宿制を熱望していましたが、創立時は通学制だったため、広いところへの引っ越しは、早くから計画されていました。
この私塾が、いつから「立教」と言う名前になったのかは、分かっていません。翌年1月14日のあけぼの新聞に、ニコライ堂と天主堂の学校と一緒に「立教学校」の紹介記事があり、創立1年後には、学校名も「立教学校」となっている事が確認できています。
ウィリアムズ主教は大阪の学校にも欠かせない存在であり、また、日本専任の主教になったとは言え、後任が決まるまでは清にも行かなくてはならず、かなり多忙を極めていました。
また、女性教育も力を入れていきます。1875(明治8)年、大阪ではアメリカ聖公会から派遣され、学校を手伝っていた女性教師E.G.エディを校長に女学校を開いています。(のちに日本で初めてセーラー服を制服に採用した平安女学院)
立教学校の中断、第一次学政改革
1876(明治9)年11月29日入船町の学校、住宅、礼拝堂は大火により壊滅状態となり、立教学校はわずか2年で中断してしまいました。
中断している間、ウィリアムズ主教は翌年、入船町の住居に自ら校長となり三一神学校を、さらに深川に聖三一教会を竣工、クーパーには神田基督教会を竣工さえ、ブランシェーには湯島に立教女学校を開校させ、東京での女子教育を始めました。 1878(明治11)年11月、聖テモテ学校の教師J.H.クインビーが上京、立教を私塾から再スタートさせ、半年後1879(明治12)年6月、京橋の日本家屋で本格的に再興しました。 しかし、12月には再び火事があり、校舎は無事だったものの、ウィリアムズ主教の家が焼失しました。
1880(明治13)年8月。体調の悪化によりクインビーが帰国、ウィリアムズ主教は、度重なる校舎の損失から、アメリカ聖公会に建築家であり、文学と科学に造詣の深い人物派遣を要請しました。そして、10月、新たにハーバード大学卒業の若い建築家J.M.ガーディナーが校長兼教師として来日しました。
ウィリアムズ主教は、その頃から1882(明治15)年にかけて、居留地に米国人信徒からの寄付と私財で土地を購入していました。
アメリカ聖公会からの建設費支出の連絡があり、この土地にアメリカのカレッジのように立派な施設群を計画しました。
1882(明治15)年6月英名を「セント・ポールズ・スクール」とし、年末にはガーディナーが設計した、ゴシック風レンガ建て総三階の豪華な新校舎を完成させました。これにともない立教学校は閉校、「立教大学校」を新設しました。この校舎は、三階が寄宿舎になており、三一神学校との併用でした。これを立教の第一次学政改革と言っています。
1882年築地に移転していた立教女学校も1884(明治17)年、ガーディナー設計の校舎を新設し、聖三一大聖堂、宣教師館、三一神学校などの立教の関係の洋風建築群が次々と施設が建設されていきました。 なお、ウィリアムズ主教は、1889(明治22)年にさらに土地を購入し続け、また後継者のマキム主教も1893(明治26)年に購入をすすめ、最終的には築地居留地の約4分の1を立教と三一教会の関係施設で占めていました。
※イラストは、築地居留地の立教の洋風建築群
立教の第二次学政改革
立教大学校となった頃から、日本の教育制度が整備されだしました。初等、中等、高等教育に分かれ、それぞれに上級学校へ進学するための資格が関わるようになったのです。立教大学校の構想がこれに合わなくなり、また、国粋主義が広がりだした事によるによるキリスト教への圧力も加わり、徐々に生徒数が減っていきました。1887(明治20)年3月、大阪英和学舎は生徒数の減少から存続が難しくなり、立教大学校へ合併されました。
生徒数は1886(明治19)年の91名をピークに減り始め、1890(明治23)年には26名になりました。
あまりに外国的過ぎた運営だったため、立教大学校や三一神学校の学生から改革運動がおこり、ウィリアムズ主教とガーディナー校長はこれを受け入れました。
1890(明治23)年10月、立教大学校は名称を「立教学校」に戻し、カレッジ構想を断念し、日本の教育制度に合わせ、尋常中学3年と高等中学2年に相当する5年制とし、英語、英文学、世界史以外の科目は日本人教師が担当することになりました。これが立教の第二次学政改革です。
※イラストは立教大学校(のちに立教学校)
日本聖公会設立とウィリアムズ主教退任
日本で伝道活動をしている聖公会の組織は、アメリカ聖公会の他に、イギリスから来た2つの聖公会がありました。
1887(明治20)年2月11日、大阪川口の三一神学校において、3つの聖公会が集まりウィリアムズ主教を議長に創立総会を開き、日本聖公会が設立しました。
2年後の1889(明治22)年4月、第2回総会もウィリアムズ主教を議長として今度は立教大学校で開かれました。これを機に、60歳になるウィリアムズ主教は引退を決め、これからは一介の宣教師として過ごすべく、アメリカ聖公会に主教職辞任を申し出、10月18日承認されました。同時に、立教関係と三一神学校も退任することになりました。
この年、大日本帝国憲法が公布され、翌年には教育勅語がだされ、立教にとって大きな転換期にさしかかりました。
※写真は日本聖公会、創立総会の記念写真
立教の第三次学政改革
1891(明治24)年、ガーディナー校長が辞任し、ロー校長を経て、翌年T.S.ティングが校長に就任しました。1893(明治26)年には、J.マキムが主教に就任、同時に立教学校の設置者となりました。
当時の新入生は、すでに漢文・英語・数学などの基本を学んでいた生徒が多く、高等小学校を卒業した程度の生徒は授業についていけませんでした。そのため、幼年科を設けていましたが、それを補充科(1年以上)とし、今までの5年制を普通科5年、その上に、大学のように高度な専門教育とキリスト教を教える専修科3年を置く3段階の体制にする第三次学政改革が計画されました。
徐々に体制が整いつつあった1894(明治27)年、大地震がおきました。それにより校舎が崩れてしまい、新体制は、三一会館を仮校舎として同年9月より始まりました。
翌年、ガーディナーによる最新の注意を払った耐震設計による新校舎と寄宿舎の工事が開始され、1896(明治29)年、完成しました。
新校舎と新規宿舎は、1階がレンガ積み、2階以上は軽量の木造でした。新校舎の中央に5階建ての塔があり、立教生には「六角塔」と親しまれ、正に立教のシンボル的な存在となりました。
この塔の礎石は、現在、立教池袋中高の正門を入ったところに展示されています。
立教中学校
1894(明治27)年に公布された高等学校令により、従来の高等中学校が高等学校になり、それに入るには尋常中学校を卒業する事が必要になりました。立教学校は各種学校の扱いだったので、卒業しても高等学校へは進学できなくなりました。さらに、この年、日清戦争が始まりましたが、尋常中学校には徴兵猶予の特権が与えられました。当時の兵役の義務は満20歳以上でしたが、中学校には年齢の高い生徒もかなりいたのです。1896(明治29)年4月立教学校は「立教尋常中学校」と「立教専修学校」に改組しました。これが、第四次学政改革となります。この、立教尋常中学校が、現在の立教池袋中高、立教新座中高に直接つながる学校となります。
1896(明治29)年、それまでアメリカ式に合わせ9月始業だったのを日本の学校歴に合わせ、4月始業に移行しました。 1897(明治30)年、神田錦町に東京英語専修学校を開校、立教の学校は3校になり、翌年3校を統括する立教学校の総理としてA.ロイドが就任しました。
居留地内にあったため立教尋常中学校の正式な認可はすぐには得られませんでしたが、1898(明治31)年、4月2日正式に認可されました。これにより生徒数が飛躍的に増えていきました。この年、校名を「私立立教尋常中学校」に改名。さらに翌1899(明治32)年3月、中学校令の改正により校名を「私立立教中学校」に改名、チャプレンだった元田作之進が新校長に就任しました。
※写真は1916年の卒業アルバムから、元田校長、校舎、校旗
宗教教育の禁止
1899(明治32)年8月、立教の歴史に残る重大な壁にぶつかりました。8月、訓令第12号が発令され、学校での宗教教育と宗教行事が禁止されたのです。
立教中学校は各種学校としてキリスト教教育を続けるか、キリスト教教育を廃止して認可校として存続するか、廃校とするかの三者択一を迫られたのです。
立教が選んだ結果は、各種学校である立教専修学校と東京英語専修学校では、宗教教育を行うが、立教中学校では宗教教育を行なわない。しかし、寄宿生の大半は中学生だったため、寄宿舎においては、宗教的会合の参加を義務づけ、毎日の礼拝に出席させる事になりました。立教が東京府に提出した陳述書には、寄宿舎の舎長を中学校校長が兼務する案でしたが、総括する立教学校総理が兼務する事で了解を得ることができたのです。
寄宿舎なら、文部省の管轄外だからでした。
立教学院
1899(明治32)年9月、キリスト教教育をできない中学校も、キリスト教教育のできる寄宿舎、2つの専修学校を含めて同じ組織である事を意味するため、この4つに共通して「立教学院」の名称を付けることになりました。それまで、全体統括していた立教学校総理ロイドは、立教学院総理となり、私立立教中学校は11月7日「私立立教学院立教中学校」への改称が認可されました。
なお、同じ敷地内にある三一神学校は、立教学院には含まれませんが、のちに開校する立教大学とは平行履修や教授の兼任など、関わりが続いていきます。
立教中学校は生徒数を増やしていきましたが、その上位校である立教専修学校は生徒数を減らし続け、1900(明治33)年、閉校してしまいました。東京英語専修学校は、順調に生徒数を伸ばしていたにもかかわらず、立ち退きを余儀なくされ、1903(明治36)年、閉校することになりました。
立教学院の学校は立教中学校だけになりましたが、その年の生徒数は520名にまで増えていました。また、高等学校の合格者も多くなり、進学校として人気を高めていきました。
1903(明治36)年4月、東京帝国大学に招聘されたロイドに代わり、第2代立教学院総理となったH.S.G.タッカーは、この年3月に専門学校令が制定されたのを機に、ウィリアムズ主教が望んだカレッジ、立教大学の設立準備に着手しました。
1907(明治40)年早々、大学のために新築された校舎が完成し、開校の準備は整いました。2階建てで、1階が大学教室、2階は約800人収容できる中学校と共用の学院講堂になっていました。
8月、「私立立教学院立教大学」が認可され、9月17日始業式が行われました。当時は専門学校でも予科を設ければ大学を名のることができたのです。大学令で正式に大学に昇格したのは1922(大正11)年です。
なお、立教大学開校の前年1906(明治39)年4月、清国人留学生のために「志成学校」(三一会館を利用、校長タッカー)を開設しています。この学校に関しては、あまり資料が残っておらず、1917(大正6)年頃まで続いたようです。
※写真は1907年5月19日、立教大学校舎兼学院講堂
同窓会について
ロゴマーク
マーク・ロゴタイプ
立教中高同窓会では、それまで隔年で開かれていた定期総会を2007年から、池袋と新座のどちらかで、毎年定期総会を開く事になりました。それを機にシンボルマークを持つことになりました。
立教生なら誰でもが親しみのある、紫の盾に白十字をベースに、立教池袋と立教新座の校旗にあるシンボルを左右に並べたデザインは、2つの学校共通の同窓会という特殊性を表現しています。
旧制立教中学校卒業の先輩方から、立教中学校、立教高等学校時代の卒業生も、そして、立教池袋、立教新座になった今も、みんなで使えるマークです。2007年の総会後の懇親会にて、マーク案5つの候補から参加者全員による投票の結果、決定しました。
また、ロゴタイプも制定しました。当会の正式名称は、「立教中学校・高等学校同窓会」ですが、使い勝手を考慮し、略称である「立教中高同窓会」としました。
2011年に立教中高同窓会の設立60周年を記念し、同窓会旗としてバナーを作りました。
設立60周年感謝礼拝にて同窓生の方々にはじめてご覧いただきました。
なお、このバナーは感謝礼拝に先立ち、6月13日、市原信太郎チャプレン(立教池袋中高)により、祝別式が執り行われました。
※2006年に新座で臨時総会が開かれていますので、実質的には2005年から毎年、総会が開かれており、原則的に、池袋と新座で交互に行なわれています。
会員バッジ
会員バッジ
立教中高同窓会では、設立60周年を記念し、2011年から会員バッジを使用しています。同窓会のシンボルマークをモチーフに純銀製に紫の七宝焼きで作られています。裏はピンになっていますので、襟章として、ネクタイピンとしても利用できます。同窓会の総会にご出席頂ける時や、各OB会、同期会など同窓生の集まる時に、ぜひ着用していただければ幸いです。 初回限定版のみ設立60周年の記念を示す「60th」の文字が入っています。
新卒業生へ
新卒業生へ
立教中高同窓会では、同窓会への歓迎の意味をこめて、立教池袋高等学校、立教池袋高等学校の卒業式において、同窓会マークをあしらった革製のキーホルダーを卒業生へプレゼントしています。
裏面には、その卒業年が刻印されています。
教職員の方へ
教職員の方へ
立教中高同窓会では、お世話になっている両校の教職員の方へ勤続15年目に表彰させていただいております。
また、退職された教職員の方へ感謝を込めて表彰させていただいております。
どちらも、定期総会の時に表彰式を行っております。
会報
立教中学校・高等学校同窓会は、2007年より毎年1回会報を発行しています。
過去の会報をご覧になりたい方は、パックナンバーをPDFにてご覧いただけます。
各OB会の紹介
各OB会のご説明と連絡先を掲載しております。
担当者やアドレスが変更になった場合や、名称が変更になった場合はご連絡ください。