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▼  立教中高の歴史

▼  立教中高の歴史

このページは、まだ随筆途中です。また、年月日は実際と違う可能性があります。

創立者
立教学校
学政改革
立教中学校(旧)
立教学院

創立者
ウィリアムズ主教
立教学校
1874年(明治7)〜
学政改革
1887年(明治20)〜
立教中学校(旧)
1891年(明治24)〜
立教学院
1899年(明治32)〜
 
このページは、まだ随筆途中です。
今後、原稿を追加していきます。
 
また、複数の資料を参照しておりますが、資料によって年月日などの表記に矛盾のある箇所があります。
年月日など、実際と違う可能性がある事を予めご了承ください。

創立者
ウィリアムズ主教

williams立教の創立者、チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教は、1829年7月18日アメリカ、ヴァージニア州リッチモンドで生まれました。幼いときに父親が病死したため、従兄の雑貨店の店員をしながら学費を稼ぎ、ウィリアム&メアリー大学を卒業。そして、海外への伝導に熱心だったヴァージニア聖公会神学校へ進学しました。アメリカ聖公会初代海外伝道主教W.J.ブーンがこの学校を訪問したのをきっかけに中国への伝道を決意、卒業後、同級生ジョン・リギンズと共にアメリカ聖公会伝道協会より任命され、中国派遣の伝道師となりました。1855年11月30日、26歳のとき、ニューヨークを出発し、南半球をまわり、オーストラリアのシドニーを経由する半年以上の長旅で翌年1856年6月28日ブーン主教の待つ清(上海)へ到着しました。
上海で中国語の学習をはじめた2人は、わずか11ヶ月後には中国語での伝導をしていました。当時の清は、阿片戦争に負けたばかりで、暴徒による襲撃や暴力に苦労したようです。
特にリギンズは、マラリアや暴徒による危害での衰弱がひどかったようです。
清で3年間を過ごしたのち、1858年、日米修好通商条約が調印されたのを機に、1859年5月まず、リギンズが静養を兼ねて長崎に来日し、同年6月下旬にウィリアムズが来日しました。二人は、日本に来た初のプロテスタント宣教師です。

ウィリアムズ主教来日

長崎に着いた二人は、崇福寺という寺で過ごしました。しかし、リギンズは体調の回復が思わしくなく帰国し、ウィリアムズは1人で長崎に残りました。ウィリアムズの語学習得はここでもすばらしく、わずか1年3ヶ月で日本語を自由に操ったそうです。当時、幕府はまだ、キリシタン弾圧を行なっていました。その後、東山居住地の宣教師館に移り、外人居留者のための教会で牧師をするかたわら、祈禱書や聖書の翻訳を続け、布教ができる日を待ち望んでいました。このころ、ウィリアムズは高杉晋作に会ったり、前島密や大隈重信に英語を教えています。
1864年ブーン主教が亡くなったため、後任に選ばれたウィリアムズは1866年アメリカ聖公会から呼び戻され、中国伝導主教(日本も担当)に任命されました。この帰国時に、大統領A.ジョンソンや国務長官W.H.シワードに直接面会し、日本の禁教令撤廃に圧力をかけるよう願い出ています。
1868年ウィリアムズ主教は再び清に渡り、武昌(のちの漢口)に拠点を置き、伝道の旅を続けていましたが、日本での大政奉還を聞きつけ、1869(明治2)年、再来日し、今度は大阪を拠点としました。

大阪での活動

1870(明治3)年、与力町に小さな礼拝堂を作り、英語塾を開き、後続の宣教師たちも大阪へやってきてウィリアムズ主教の活動は徐々に充実してきました。
1871(明治4)年には、川口居留地内に移転し、翌年には、午後2時間のみの男子学校を開きましたが、わずか4ヶ月で大阪当局に閉校させられました。ウィリアムズ主教は、大阪に続いて東京での開校を計画し、アメリカ聖公会に提起しました。これを承認したアメリカ聖公会は、日本へC.H.ニューマン、C.T.ブランシェー、W.B.クーパーらの宣教師達を東京へ派遣してきました。男子学校は翌1873(明治6)年2月4日、待望の本格的な学校、聖テモテ学校(のちの大阪英和学舎)として28名の生徒を集めて再び開校しました。
徐々に宣教活動が黙認され始め、1873(明治6)年2月24日、明治政府によるキリシタン禁止の高札が撤去されました。
この年11月、大阪の学校を後任にまかせ、ウィリアムズ主教は44歳になるこの年、次の目的地、東京へ主教座を移しました。