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▼  立教中高の歴史

▼  立教中高の歴史

このページは、まだ随筆途中です。また、年月日は実際と違う可能性があります。

創立者
立教学校
学政改革
立教中学校(旧)
立教学院

創立者
ウィリアムズ主教
立教学校
1874年(明治7)〜
学政改革
1887年(明治20)〜
立教中学校(旧)
1891年(明治24)〜
立教学院
1899年(明治32)〜
 
このページは、まだ随筆途中です。
今後、原稿を追加していきます。
 
また、複数の資料を参照しておりますが、資料によって年月日などの表記に矛盾のある箇所があります。
年月日など、実際と違う可能性がある事を予めご了承ください。

立教中学校
立教の第三次学政改革

六角塔1891(明治24)年、ガーディナー校長が辞任し、ロー校長を経て、翌年T.S.ティングが校長に就任しました。1893(明治26)年には、J.マキムが主教に就任、同時に立教学校の設置者となりました。
当時の新入生は、すでに漢文・英語・数学などの基本を学んでいた生徒が多く、高等小学校を卒業した程度の生徒は授業についていけませんでした。そのため、幼年科を設けていましたが、それを補充科(1年以上)とし、今までの5年制を普通科5年、その上に、大学のように高度な専門教育とキリスト教を教える専修科3年を置く3段階の体制にする第三次学政改革が計画されました。
徐々に体制が整いつつあった1894(明治27)年、大地震がおきました。それにより校舎が崩れてしまい、新体制は、三一会館を仮校舎として同年9月より始まりました。
翌年、ガーディナーによる最新の注意を払った耐震設計による新校舎と寄宿舎の工事が開始され、1896(明治29)年、完成しました。
新校舎と新規宿舎は、1階がレンガ積み、2階以上は軽量の木造でした。新校舎の中央に5階建ての塔があり、立教生には「六角塔」と親しまれ、正に立教のシンボル的な存在となりました。
この塔の礎石は、現在、立教池袋中高の正門を入ったところに展示されています。

立教中学校

六角塔と元田校長1894(明治27)年に公布された高等学校令により、従来の高等中学校が高等学校になり、それに入るには尋常中学校を卒業する事が必要になりました。立教学校は各種学校の扱いだったので、卒業しても高等学校へは進学できなくなりました。さらに、この年、日清戦争が始まりましたが、尋常中学校には徴兵猶予の特権が与えられました。当時の兵役の義務は満20歳以上でしたが、中学校には年齢の高い生徒もかなりいたのです。1896(明治29)年4月立教学校は「立教尋常中学校」と「立教専修学校」に改組しました。これが、第四次学政改革となります。この、立教尋常中学校が、現在の立教池袋中高、立教新座中高に直接つながる学校となります。
1896(明治29)年、それまでアメリカ式に合わせ9月始業だったのを日本の学校歴に合わせ、4月始業に移行しました。 1897(明治30)年、神田錦町に東京英語専修学校を開校、立教の学校は3校になり、翌年3校を統括する立教学校の総理としてA.ロイドが就任しました。
居留地内にあったため立教尋常中学校の正式な認可はすぐには得られませんでしたが、1898(明治31)年、4月2日正式に認可されました。これにより生徒数が飛躍的に増えていきました。この年、校名を「私立立教尋常中学校」に改名。さらに翌1899(明治32)年3月、中学校令の改正により校名を「私立立教中学校」に改名、チャプレンだった元田作之進が新校長に就任しました。
※写真は1916年の卒業アルバムから、元田校長、校舎、校旗

宗教教育の禁止

1899(明治32)年8月、立教の歴史に残る重大な壁にぶつかりました。8月、訓令第12号が発令され、学校での宗教教育と宗教行事が禁止されたのです。
立教中学校は各種学校としてキリスト教教育を続けるか、キリスト教教育を廃止して認可校として存続するか、廃校とするかの三者択一を迫られたのです。
立教が選んだ結果は、各種学校である立教専修学校と東京英語専修学校では、宗教教育を行うが、立教中学校では宗教教育を行なわない。しかし、寄宿生の大半は中学生だったため、寄宿舎においては、宗教的会合の参加を義務づけ、毎日の礼拝に出席させる事になりました。立教が東京府に提出した陳述書には、寄宿舎の舎長を中学校校長が兼務する案でしたが、総括する立教学校総理が兼務する事で了解を得ることができたのです。寄宿舎なら、文部省の管轄外だからでした。